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何を根拠に信じるか?

  • 戸田京子
  • 2020年4月4日
  • 読了時間: 3分

時事ネタになりますが、コロナウィルスが拡がり始めた当初、信心・信仰の力で乗り越えられると主張した宗教組織がありました。というか、知られていないところでも、おそらく、そういう発想をしたり、口にしたりした組織・個人はあったと思います。でも、現実はどうだったか?とてもではありませんが、そんなことで交わせる相手ではありませんでした。

このように、現実や科学的事実の前に、思い込みや予言は無力です。宗教や信心・信仰を否定しているのではありません。きちんと現実を見据えた信心・信仰があろう、ということです。科学技術も情報網も発達していなかった昔、素朴に何かを信じていた人を否定するわけではありません。その時々、状況に合わせて、人間は知恵を使ってきたのですから、違う時代や地点に立って裁くのはナンセンスです。

だからこそ、今、この状況、現実に合わせて、信心・信仰を捉えられるかが問われるのです。

『信じたら~になる、~出来る』ーこのタイプの信心・信仰は「証拠があるから信じなさい」というものです。だから、今回も「信じたらコロナウィルスに感染しません」というやり方だって、ありなわけです。でも、現実はとてもシビア。現時点に至っても、このようなことを謳う団体があるのですが、その後の結果をどうするつもりなのでしょうか。

「予言が外れるとき」という、社会心理学者の書いた本があります。実在した宗教団体を観察したもので、その団体は予言が外れても、信者さんたちはますます伝道に励み、より信仰を強くしていきました。この現象は後に「認知的不協和理論」という学説にまとめられました。イソップ童話にある「酸っぱいブドウ」のお話でたとえられることが多いのですが、ブドウに手が届かなかったキツネは、実際には口に出来なかったブドウを「酸っぱいに違いない」とくさして、お話が終わります。酸っぱいかどうかはわからないのに、本当は食べたかったのに食べられなかったブドウは「酸っぱい」ことにされてしまったのです。手に取りたいという欲求と、手に取れなかったという現実を埋め合わすために、キツネは都合の良いように解釈を変えたわけです。こういうことが、予言が外れた宗教団体にも起きたのだろうし、私たちの日常の中でも、ごく普通に起こっているというわけです。

また、『信じたら~になる、~出来る』タイプの信仰って、実は、何が証拠になるかが不明確なことも多いのです。だって、例えば「幸せ(不幸)になる」って言われたところで、何が幸せ(不幸)な状態かなんて、解釈次第で何とでもなるわけです。行きたい大学に入れる、の範囲が第五志望の大学であっても、「よかったね、信じたから合格できたんだね」とも言える(第五志望に合格すること自体が悪いという話ではありません)。たくさんお布施・献金をしたら見返りがある、のだとしたら、家庭を切り盛り出来ないぐらいのお金を宗教に出してしまい、子供が進学できなくなったとしても、「進学するより、宗教のために働くことのほうがよかったんだよ」とも解釈可能なわけです。

100歩譲って、信じている本人がそう思う、解釈する自由はあります。でも、本人は内心、納得していないのに、周囲の信者さんから、そう言い包められる、信者である親から言い包められるとしたら、納得できますか?って話なのです。

コロナウィルスほど、現実を突き付けてくる現象は、そんなにたくさんあるものではないと思います。もっと曖昧な現象に対し、「信じたから、そうなった」と言ってくる教義だとしたら、あなたは、それを信じたいでしょうか?今回のウィルスに関しては、明確な証拠が伴うので、比較しながら考える機会に出来ると思います。

あなたは、何を根拠に信じますか?自分で納得出来る信心・信仰になっていますか?ちょっと考えてみることをお勧めします。



 
 
 

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